コソボの子らと過ごした日々 by 徳永洋子
2009/11/25
整理が出来ていない山積みの書籍を何とかしなければと気になりながら延び延びになっていましたが
やっと片付けることが出来ました。
そうした中に数枚の子供の絵がファイルの中から出てきて当時のことが懐かしく頭の中を駆け巡りました。
夫の仕事の関係で1991年から2001年まで10年間をアメリカとカナダで過ごしました。
1999年カナダにいた時の事でした。戦禍の中、居場所のなくなったコソボの難民をカナダ政府が受け入れるというニュースが報じられました。 妊婦もいれば乳飲み子を抱えた人、恋人を戦場に残してきたという小学校の先生、小さな子供から、高校生のいる家庭、
総勢976人の受け入れでした。
私が住んでいたバリー(BARRIE)の町から車で30分ほどのボーデンにある軍の基地に収容されることになり
赤十字がこれらの難民のためにボランティアを募集しました。
カナダ人の友人が声をかけてくれ日本人である私もメンバーに入れていただく事になりました。
4月の末から7月までの3ヶ月間のコソボの人たちとのふれあいは、私にとって忘れられない体験となりました。
【Petritの描いた銃持つ兵士と火噴く家】
ボランティアに通い始めた2日目私は画用紙を持参し、子供達と一緒に絵を描きました。
小学生の子供たちが無心になって描いた絵は、私が想像したものとは全く違ったものでした。
爆弾を落とされ燃え上がる家や銃で撃たれて倒れている人など、どの子の絵も皆そんな悲惨な絵ばかりでした。
【燃える家と車、そして戦車】
戦禍の中でつらい悲しい経験をしてきた子たちに何か楽しいことをと折り紙を持参し子供達と一緒に折ったり、
広場に出てサッカーやバスケットボールをして遊んだりして時を過ごしましたが、
せっかくカナダで過ごす子どもたちにESLのクラスを作って少しの期間でも英語を教えようではないかと、
ボランティアの方たちの中から声があがり、日本で長年英語教師をしていた私も微力ながら仲間に入りクラスを持つことになりました。
【コソボの国旗】
子供達は慣れてくると毎朝私の顔を見ると「ヨーコ」と我先に飛びついてきました。
1人づつ抱きしめてやることが大切な1日の始まりの1つとなりました。
中学生の男の子で、彼は少し英語が話せましたが、お昼時間にはいつも私のそばに来てこれはアルバニア語ではこう言うんだと
英語を並べて私に一生懸命発音を教えてくれました。昼食時の楽しいひと時だったことを覚えています。
【Dafimaの描いたコソボの地図は涙を流している】
今でも1人1人の顔が浮かんできます。英語を学んでいた子供たちの汚れのない澄んだ瞳が脳裏に焼きついています。
あの子たちは今どうしているのかしらと、平穏な毎日であります様にと祈らずにはおられません。
北の大地より by 中西安弘
2009/10/9
【旭岳 初冠雪】
日本一早い紅葉で有名な北海道大雪山系の旭岳は9月12日初冠雪となりました。昨年より2週間早いようです。
富良野から見ると旭岳の頂上付近が真っ白に光っています。
ペンションの掃除をそこそこに済ませ、コンビニでおにぎりを買って車でとばし、
ロープウエーで姿見駅まで登り紅葉の中の旭岳を撮りました。
【十勝岳】
9月23日には十勝岳の登山口、凌雲閣から見た十勝岳です。
【ファイターズおめでとう!】
そして北海道民の注目の的は日本ハム。富良野駅のホームで出会った列車です
クロアチア、スロベニアの旅 by 徳永洋子
2009/7/4
【城砦に囲まれたドブロヴニク旧市街】
世界遺産に登録された美しい町が沢山あるというクロアチア、スロベニアに一度は行って見たいなと思っていた矢先
JALチャーター便で15、6時間かかるところを12時間弱で行けるという宣伝文句のパンフレットを手にし早速申し込んだ。
【通路は狭く迷路のようだ】
ドブロヴニクに夕方到着。サマータイムをとっているのでまだ陽は高い所にあった。
ホテルのロビーでは生演奏に合わせジルバを踊る若者、適当にステップを踏む老夫婦の姿があった。
翌朝は7時間の時差のせいか早く目が覚めホテル最上階のテラスに上がって見る。素晴らしい景色に感動!!
足早に部屋に戻りスケッチブックを取り出し出発前の1時間スケッチを楽しむ。
【オレンジ色に統一された屋根】
2キロメートルの城砦を汗だくになりながら1周してみた。
屋根の色はオレンジ色に統一され海の青、壁の白、屋根のオレンジが素晴らしいコントラストを作っていた。
【スプリットの大聖堂】
ドブロヴニクからスプリットへ向う海岸線の左はアドリア海右は石灰石の岩山が延々と続く。アドリア海沿岸最大の港町
スプリットはローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿がそのまま旧市街になったというおもしろい町だ。ダルマチア地方の経済の
中心で101匹ワンちゃんで知られるダルメシアンの生誕地でもある。
【トロギールの住居】
【トロギール】
スプリットからトロギールへ向う海岸は水着を着ないで泳げる
ナチュラリストビーチがいくつか有り日照時間の少ない北欧からの旅行者が多いそうだ。水温が高いので泳ぎやすく殆んどの人が
何も身につけず日光浴をしているそうだ。トロギールは回りを城砦で囲まれた小さな島で人口は1万人。煙草産業、造船業の
町でタバコはどこででも吸えるそうだ。町は狭い路地を迷路のようにくねっていてどこを切り取っても絵になる町だった。
【プリトヴィッツエ公園】
【プリトヴィッツエ公園】
1979年世界遺産に登録されたプリトヴィッツェ湖群国立公園は大小16の湖と92ヶ所の滝を持つ。エメラルドグリーンの
プリトヴィッツエ川は森の中を縫うように蛇行しながら流れ透明度の高い水中には数多くの魚が泳いでいた。石灰石が堆積し
湖を階段状に作り西の九塞溝とも呼ばれている。
【湖水に映るブレッド城】
クロアチアからスロベニアの湖畔の町ブレッドへ。ホテルの窓から見えるブレッド城が幻想的で少し薄暗くなりかけていたが
お城まで行って見たくなりK夫妻を誘って山道を登る。お城のテラスから見下ろす聖マリア教会が湖水に映り1枚の絵になった。
【湖に浮かぶブレッド島】
旅の終わりはザブレグの町訪問。クロアチアの首都だけあって町はにぎやかだ。ガラス絵で有名なナイーブアート美術館に行く。
原田泰治が影響を受けたと言うガラス絵だ。詩情あふれる田園風景、四季の移ろい、どこの国も叙情あふれる感覚は一緒なのだと感じた。
原田泰治の2004年の作品「晩秋の山野」が展示してあった。次に近現代美術館を訪れた。1800年から2000年の
クロアチアの作家の作品が1階から2階に所狭しと展示してあった。建物も空中散歩出来そうな橋が部屋から部屋に渡して有り
工夫が凝らしてあった。中でも入り口近くに展示されていたでっかい絵は素晴らしく暫くその場から動けなかった。
作家の名前も作品名もクロアチア語で書かれていてさっぱり分からず残念だった。
かくして9日間の旅は終わったのである。
Suzuka Voice FM 開局 by 太田昌文
2009/3/31
【公開放送会場の建物】
3/20。鈴鹿にFM局「Suzuka Voice」が開局されました。初めての地元FM局です。
その開局記念イベントに、石井竜也氏が来る!ということで、とにかく行ってきました。
私も妻も石井竜也氏のファンで、10年ほど前、8耐の総合プロデュースで鈴鹿サーキットに来たときも、その前夜祭に参加してきました。
今回は特別ラジオ番組「Voice Summit」のメインパーソナリティということで、会場に少人数の観客を入れての公開生放送です。
運良く会場に入れたので、すぐ近くでじっくり顔を見て、声を聴けました。
ゲスト3名との対談形式で、「刑事コジャック」「紅の豚」の声でおなじみの森山周一郎氏、落語家の立川志らくさん、
ミュージシャンで元スターダストレビューの光田健一氏という豪華な顔ぶれ。
森山氏の意外に悪戯っぽい喋りに出演者みんな翻弄されながら、賑々しい時間を楽しみました。
最後は「朝日につづく道」など3曲をライブで、という予期せぬプレゼントまであり、大満足の2時間でした。
【トルソー&活花】
この特別番組以外でも、FM鈴鹿のある鈴鹿メディアパーク内にはいろんな目玉があって、その一つが石井竜也氏と鈴鹿の華道家二人によるトルソーと活花のコラボ作品。
実はこの1週間ぐらい前に、私の母がその華道家の一人だと知らされて、ちょっとびっくり。氏とのコラボ作品なんて、羨ましい限り。
話を聞いたときは、トルソーと活花の組合せ自体は絵のモチーフにも割りとよく使われるので違和感はないなぁ、と思ったのですが、
よく考えてみなくてもトルソーの作者は石井竜也、まともなものであるはずが無い(笑)と、ある意味失礼な期待をしていました。
そしてその日、特設会場に展示してあったのは、曇天の重い空の色も吹き飛ばすような派手にカラーリングされたトルソー、その周りを彩る生花。生命力あふれる空間が演出されていました。
でも、生花と組み合わせるにはトルソー、少し大きすぎたかも……(等身大よりも2回りぐらいおおきい)。と、ちょっと違うジャンルの文化を堪能した一日でした。
徳永洋子 復活! by 徳永洋子
2009/2/8
2008年12月13日。
この日は62年の私の生涯において忘れられない日となった。
キッチンの流し台の上のキャビネットを掃除している時だった。
何時もは流し台の上に上がり扉を磨いていたが、その日は夫が物置から脚立を出してきていて
これに乗ればやり易いと上に乗って磨き始めた。
そのまま続ければいいものを脚立の留め金が外れたままだと気づきいったん降りて留めようとしたわけである。
左足を脚立の下の段において次は右足のつもりだったのだろうが気が付いた時は背中からフロアーにたたきつけられ
反動で頭をガーンと打ち付けられこれも一瞬のことだった。
うんうんうなっている私を夫はたいしたことではないと思ったらしく(実際落ちた瞬間を見ていない)
立ち上がれるか?と言うので腕で支えながら自力で立ち上がったのである。
少し吐き気があったが横になれば治るだろうと夫も私も軽い気持ちでその日は病院にいくことも考えの中には無かったのである。
しかし翌日になると事態は深刻だった。身体に力が入らない。立ち上がれない。救急車で病院へということになったわけである。
先ず頭のCT撮影問題なし。背中のX線撮影大いに問題あり。腰椎の1番を圧迫骨折してます安静にして入院ですとの医者の言葉に
初めて事の重大さに気が付いたわけだった。
【時にはiPODでクラシックやフォークソングを】
翌日詳しくMRIで撮り胸椎の12番も骨折がある事が判明。3週間をベッドから降りることなく過ごすことになったのである。
3週間と言えばクリスマスも大晦日もお正月も病院で過ごすと言うことかと、
一生のうちでこんな経験一度あるか無いかだろうなとこれからの長い寝たきりの生活を思い、
マアこれもいい経験かと納得するのであった。
メモしてあった読みたい本を夫に頼み買ってきてもらってはどんどん読んだ。
なにせ24時間全部私の時間なのだ。帚木蓬生、開高 健、遠藤周作、
学生時代に買ったまま読めずにいた白水社が版権を持っているマルタン デュガールのチボー家の人々全5巻の大作を読んだ。
4000曲入るというiPODなるものを夫が買ってきて入れてくれた。
時にはパズルを解いてみたり、万華鏡で遊んでみたり3週間はいつの間にか過ぎていった。
【リハビリ風景】
1月5日。リハビリ開始である。リハビリの先生が見え、張り気って起き上がる。
軽いめまいが起きるが大丈夫だと言って車椅子を自分で操作する。
3週間の間に身体の全ての部分が(口以外は)休んでいるわけでやはり急な動きには耐えられなかった。
顔は蒼白トイレへ直行。翌日は朝から少しづつベッドを上げてもらい身体を慣らし午後から車椅子でリハビリ室へ、
2日後には歩行器で歩きリハビリ開始5日後には自力で歩き始めた。
日頃運動をしているから回復が早いねとリハビリ先生からお褒めの言葉をいただく。
病院中を自由に歩けるようになると下界の事が少しづつ気になってきた。
今年の本展への出品は無理だと思っていたが僅かだが希望が見えてきた。
夫に頼み第一美術の図録や絵に関する書籍を病室に運んでもらい談話室に持って行っては描けるようになる日を楽しみにながめていた。
1月31日。晴れて退院の日を迎えたのである。予想していた退院の日が大はばに早まった。
諦めかけていた新国立美術館出品の100号の絵の制作が何とか間に合いそうだ。